定義は存在に先立つ(のか?)

実存は本質に先立つ、と言ったのはサルトルであったと思いますが、サルトルが言ったかどうかのその真偽はともかく、それをパクった表題であることは事実であります。

ただこのような言明に出くわした時、「実存」とは何かとか、ここで申し述べられている「本質」というものは何かとてつもなく深遠なるものなのではあるまいかわたくしごときがおいそれと近寄ってはならぬのではないか、という、絶壁の前に立ちすくした際に感じる畏怖の念が生じてしまうのでもあります。

数学についてもしかり。

以前、関数の停留、極大極小などについてなんとはなしに書き綴ったこんなもの、の中で、わたくしは
数学的な概念やタームを説明する場合,まず始めににその対象の定性的性質を描き,その性質を満たすも のを「『何某』であると定義する」という形がとられることが多いと思う.対象の定性的性質がわかりやす い場合には有効な形式であるけれども,いろいろ込み入ってくるとなかなかそうもいかない.そして往往に して,定性的性質を描く際には,その「『何某』の定義」が暗黙に前提され背景化されている場合が多く, 初めて学ぶうぶな時には定性的性質を把握しづらいというのも事実である
などと生意気にも書き記し、さらに、
イメージ豊かに生き生きとその定性的性質を思い描ける,というのが「才能」であるのだろう.そこで我々 のような凡人は,定性的性質の不完全なイメージと実際の定義をあわせもって微修正しつつ,自らのイメー ジを作成するという方法をとる.それが学習というものなんだろうと思ったりする.
ある場合には,その『何某』であるという定義を先に認めてしまい,そこから定性的性質をイメージする努 力をするということも効果的な方法なのだ,と考えたりもする.なにより「はっきり」と論が進められるよ うな気になれるのがよい.
などとグダ沼化した言い訳めいたものをも書き殴っていたのでありました。

でも無限集合にまつわる一連のものや、微分積分、そんな感じで会得してきたのではないのでしょうかね。ま、もちろんわたくしの「才能」については棚上げお手上げでありますけれども。

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